ロスの朝は早い。
午前6時には起きてロードワーク。アヒルが多いことから彼らがアヒル公園と呼んでいる公園で、1周1キロから1、2キロのコースを5週。ホテルに帰ってパンとコーヒーを胃袋に流し込むと、10時半には戦闘態勢。スパー相手を求めて「メイウッド」、「アステガ」、「ワイルドカード」というロス市内にある3つの名門ジムを巡るのだ。
「最初はパンチが強くてスパーが怖かった。体の力に驚きました。でも慣れてくるんです」世界ランカーや五輪出場経験者らと拳を合わせる。パンチの衝撃度には驚いたが、速いと思った選手はそういない。日本では経験できないような予測のできないコンビネーションを打ってくるから勉強にもなる。
1か月、600ドルのシャワー、トイレ共同の安ホテルが定宿。嫁と子供を日本に残しての単身赴任で、スポンサーの援助に助けられての節約生活である。試合の3か月前からアメリカ生活をするサイクルだから年の半分は海外にいることになる。日本にはスーパーウェルター、ミドル級という中量級のパートナーは少ない。試合のチャンスとなるともっと少ない。この階級でドリームをつかむには、本場のアメリカを選ぶしかなかった。現在メキシコのカネロプロモーションに2試合の契約を握られているから、なおさらである。

聖地で奇跡のKO劇

2011 年4月9日、MGM グラウンドガーデン。元世界1位のジェームズ・カークランド戦を前に、控え室のモニターで元IBF世界Sライト級王者のポール・マリナッジやライト級の3団体統一王者、ネート・キャンベルというビッグネームの試合を自分の前座として見ながら、不思議な気持ちがしたという。
負けたら引退。なによりいろんな人を巻き込み実現した試合に結果を出さねばならないという責任は感じた。27戦無敗のホープを前にして自信にあふれていたわけではなかったが、不安もなかった。
手が入ってくるので、そこにカウンターをぶつける。プレッシャーで下がると負けだ。リングの中央でボクシングをしよう」
長いラウンドは考えてはいなかった。
「1ラウンド、1ラウンド全力」という覚悟だった。映像で過去の試合を見ると左を打つ時にガードが皆無に等しい。しかも、打たれ弱い。パンチ力と暴走気味のプレスは脅威的だが、弱点はあった。後は、下がらず狙えるかどうかの勇気。1ラウンド、左が、その空いたガードからカークランドの顎をとらえた。ダウン。ふらつきながら立ち上がってきたが、石田は、「回復されたらやばい」と、止めをさしに行った。戦慄のKO劇である。「柔らかい感じでそう感触はなかった」というパンチが全米のボクシング界を揺るがすアップセットを生んだ。

一度は引退を考えた

元WBAスーパーウェルター級の暫定世界チャンピオンである。00年にプロデビューしたが、09年にベルトを腰に巻いたという遅咲きだ。暫定王者として00年10月にメキシコで行われたリゴベルト・アルバレス(メキシコ)との正規王座の決定戦に抜擢されたが、1 -2の判定で敗れた。今でも「負けてない」と振り返るほど醜い地元判定だったが、35歳の石田は、もう引退しようと考えていた。ジムの移籍問題や彼の権利を巡っての金銭のトラブルなどリング外の問題にふりまわされ、とても、これ以上ボクシングに集中できる状態ではなかった。決してボクシングをやりきって結論を出した引退ではない。そういう気持ちを見透かしたように臨床心理士の妻が、引退を止めた。
「あんなんで最後終わったらあかん」
カミさんにケツをたたかれて引退は翻意したものの、ずるずると半年が過ぎようとしていた。石田は「年齢的なことも家族もある。アメリカで3か月頑張って、結果が出ようが、出まいがケリをつけて帰ってくる」と退路を断ってアメリカに渡った。ほどなくカネロプロモーションから試合打診のメールが来たが、試合は、わずか2週間後で、相手は無敗の世界戦線復帰を狙うカークランド。噛ませ犬としての試合であることはすぐにわかったが、迷いはなかった。石田は、そこで運命の扉を開けることになるのだ。
「噛ませ犬的なカードにこそモチベーションが上がるんです。面白いじゃないですか」
スーパースターとなったフィリピン人のマニー・パッキャオも、噛ませ犬からシンデレラストーリーを駆け上がって6階級制覇。闘争心とKO劇。その2つを兼ね備えたボクサーにはボクシングマーケットを握っている有料テレビとプロモーターが飛びつく。石田対カークランド戦には、その2つが見えた。

「外国人も日本人も一緒ですわ」

筆者は、石田の試合を昔から見ていたが、これまでは悲しいかな危ない匂いがしなかった。よくここまでスタイルを変えたものですね?と切り出すと石田は正直に告白した。
「スタミナを計算してしまって2 -1判定とか、そんな試合ばかりになっていたんです。勇気もなかった。それがアメリカで吹っきれた。彼らは、怖がらずにどんどん打ってくる。僕は相手が、カウンターを狙っているんじゃないかと手が出なくなっていたけど、もうそんなことを一切考えなくなったんです」
失うものは何もない。立場と環境は人を変えるのだ。海外でプレーするサッカー選手は日本人の長所を生かそうとする。打撃フォームを変えてMLBの野球に適応したメジャーリーガーもいる。だが、ボクサー石田の感性は、それらと少し違っている。海外で感じる日本人の長所と短所はどこですか? と聞くと、重量級の本場に飛び込んだ石田は「日本人もアメリカ人もメキシコ人もキューバ人もみんな一緒ですわ」と嗤うのだ。
「遠い世界だと思っていたけれど、ここに来てみてスパーをやるとそんなに力の差はない。これまで海外の選手を過大評価しすぎていたんですね。実は、そんなに劣っていない」昨秋、ロスのステイプルセンターで元3階級王者のシェーン・モズリーと元WBC世界Sウェルター級王者のセルジオ・モーラーのビッグマッチを見た時も、「オレの方がもっとやれるやん」と思った。
興国―近大のアマチュアエリートだがスムーズにプロになったわけではない。卒業後は、児童養護施設の指導員に就職。子供たちと一緒に生活をした。その子供たちの中に、たまたま高校のボクシング部に所属している生徒がいた。施設の屋上で一緒に練習しているうちに「先生!もう一回やらへんの」と言われ、2年のブランクのちプロに転向したという異色のプロフィールを持っている。
「違う人生もあったのかなとも思うけど、これでよかったなとも思う。最後まであきらめないことが大切だと思っている。一度は、あきらめかけたけど(笑)。MGMで一回勝ったくらいで夢が叶ったというのは恥ずかしい。でも一歩は、先に踏み出しましたよね」
少々遠回りはしたけれど。
やりたいのはビッグマッチ。でも噛ませ犬なんで(笑)。次負けたら終わりですわ」
将来はジム経営を念頭においている。
実はWBC世界ミドル級王者、チャベス・ジュニアとのタイトルマッチが決まりかけていた。メキシコの英雄チャベスの息子だ。結局、まだネームバリューも実力も足りないという理由で流れたが、石田にはスター街道を賭け上がるチャンスは残っている。
誰も知らなかったボクサーの名前が挙がるようになっただけでも前へ進んでいる。ここで練習していることは無駄ではないですよ」
ボクサーである期間だけのアメリカ移住も計画中。当分、海外生活は続きそうである。

インタビューアーカイブ

ボクサーズ・コンディショニング グリーンツダ石田順裕

石田順裕 Ishida Nobuhiro

1975 年8月18 日、熊本県生まれ、大阪府寝屋川市育ちの36 歳。興国―近大から00 年プロデビュー。01年に東洋太平洋Sウェルター級王座を獲得、06 年に同級日本タイトル、2度防衛後返上して09 年にWBA暫定王座に就いた。31 戦23 勝(8KO)6敗2分 1m88cm