WBC世界Sフライ級タイトルマッチレポート 吹っ切れなかった迷い 名城信男

元世界王者の“元”の字が取れないボクサーと奈良で会った。黒いジャンバー姿で現れた名城信男は少し小さくなったように思えた。
「悔しいっすね。パンチを効かされての力負けじゃなかった。よけい悔しいっす。今でもあまり、眠れないんです」
ロハスとのWBC世界Sフライ級タイトルマッチから、2週間が過ぎていた。
あの試合の課題は「迷わないこと」だった。
「迷わないことが課題だったのに迷いました。策がありませんでした」
これまで自分の試合の録画を見たことはなかったが、後援者への挨拶周りを前に枝川孝会長から「自分でビデオも見ず、反省もしてないのに挨拶もできんやろ」と叱られた。早朝に見た録画映像は、自分でもつまらないボクシングだった。
「どっちもクリーンヒットがなかった。ということは、ロハスの勝ちなんです」
なおさら悔しさが募る。
「なぜ、すぐに引退すると言わなかったのか」
後援者の一人(プロのボクサーが行っている過酷な日々をリスペクトできない人を後援者とは呼ばないのだが)には、そんなことまで言われた。試合後の報道陣がはけたロッカーで枝川会長に「メキシコでやらせてください。ノンタイトルで、どんな強い相手でも構いません。負けたら、そこで終わりになってもいいんです」と、すぐさま再起を直訴していた。しかし、その後、逡巡を繰り返し、正直に白状すれば「もう辞めたほうがいいのかな」という気持ちが、頭をよぎったこともある。けれど、考えれば考えるほど、ボクシングが好きだ。抑えきれない自分の気持ちに嘘をつくわけにはいかない。
「やりたいです。思い切り……」
2杯目のコーヒーが運ばれてきた。

パニックに陥る

2月5日、大阪府立体育会館。
小さな控え室で、最後のマスボクシングを丹念に行い、体を温めながら、グローブをはめた手で不器用にノートを開いた。毎日、つけている名城ノート。世界戦当日には試合で気をつけなければならないポイントや心構えをなぶり書きしてある。
この日のノートを盗み見れば、「最後」と大きな文字で書いてあった。続けて「これがカスティーリョ戦( 06年に初の世界王座を奪った試合)で、足りなかったもの。(あの試合は)動けたけど何かが足りなかった。それは危機感。今はある。いける!」とある。2週間前に長女の柚希ちゃんが生まれた。負けたら次はない―― そんな責任と危機感。
静かなゴング。名城は、意表を突いた右のダブルからスタートした。身長で8・3㌢、リーチで12・5㌢の差を埋めるには、どうインサイドに入るかにかかっていた。
「左をついてロハスを内側に置く。下から上へ。そして、ストレートとフックをうまく使い分けて捉える」
藤原俊志トレーナーと考えていた作戦にそって名城は、腰をかがめるような低い姿勢からインサイドにもぐりこみ、2回には、鋭い右ストレートがクリーンヒットしている。
ボディも打てていた。だが、パンチは大ぶりで、どこか気持ちだけがはやっているようにも見えた。責任と危機感――それが、名城に逆に力みを与えてしまっていたのか。3回を終わってコーナーに帰った名城は「スタミナが持たない」と嘆いた。4回、名城は前に出なかったが、ちょっとした心の弱さが世界戦では命とりになる。4回までのWBCの公開採点が出た。ここまでのスコアは、38 - 38が1人、37 - 39が2人。
「取っていたと思ったけれど、取れていなかった。同じことをしていてはダメだ」
歯車が狂う。陣営にとっても、それは誤算だった。近年、アウトボクシング有利のジャッジ傾向があるのは事実だが、のちに提訴を考えたほどの見解の相違だった。
5回からロハスは、右回りに足を使い正統派のアウトボクシングの本領を発揮し始めた。名城の手数は減り、逆にロハスは自由を得たツバメのようにステップを踏む。
ロープに詰めても、体をねじるように頭を下げ、体を密着させてくる。ダメージを与えるブローは、たったの一つも打ち込むことができなかった。セコンドは「細かいパンチ」「左に下げてくる頭にアッパー」と伝えたが、「頭でわかっていても力んで打てなかった。頭と体がバラバラだった」と振り返る。
いったいどうすればいいのか。
袋小路に追い詰められた名城は、6回の終了後、コーナーの椅子に座ると、首を左に振って観客席をふりむいた。
「高見先生! どうすればいいですか!」
一種のパニック状態だったのだろう。最前列に座っていた奈良工業高時代のボクシング部の恩師に教えを請う。
8回、さらなる不運。名城の頭が当たった瞬間、ロハスの鼻の上から鮮血が流れた。WBCルールでは、偶然のバッティングで流血した場合、負傷していない選手から減点をする。途中採点が、再び場内にアナウンスされた。73 - 78が1人、75 - 78が2人。2人は、まだ、3ポイント差である。絶望的な差ではない。逆転は可能で、名城も「残り全部取れば、僕の勝ちだから」と考えていた。スキップをするように前へ前へ。ロハスもギリギリだったのだろう。足も手も止まり、しがみついてクリンチに逃れる場面が目立つ。だが、老獪なメキシコ人は、11回には、再び磁石の同極同士のような距離を保ちながら右を打つ。ジャッジの三者は、正統なアウトボクシングをした王者を支持した。最終ラウンド、もつれあったままゴングを聞くと名城は両手を挙げてアピールした。
「自分では、もしかしたらと思っていましたが、まったく評価されなかったですね」
世界のスタンダードは、名城のスタイルには見向きもしてくれなかった。

真夜中の反省会

その夜、枝川会長は、藤原トレーナーらと共にジムの近くの暖簾をくぐり、鶏肉を焼きながら反省会をした。
「力が落ちたのかな。練習不足かな」
枝川会長は、そんな疑問を抱いた。
藤原トレーナーは「試合をした気がしません。力んで最後まで空回りしていた。練習でできていたものが何ひとつできなかった」と、止めていたアルコールをぐいっとあおった。朝が白むまで酒場にいたけれど、時計を8時間ほど戻さぬ限り、彼らの気持ちが晴れることはなかったのである。
後日、テレビ解説で、「僕なら違うボクシングで攻略できた」と、語っていた元世界王者の徳山昌守に、その中身を聞きにいった。
「サウスポーで懐の深い相手に対して左のリードが少なすぎた。全部を当てなくても、シャドーのような捨てパンチを打てばリズムも変わってくる。途中で休んだけれど、世界戦で、一度休むと盛り返すのは簡単じゃない」
フェイントも使えなかった。チャンスが潜んでいるはずの至近距離での打ち合いにもロハスは応じなかった。研究してきたつもりが研究されていたのは名城の方だった。対応力や順応力。試されたものは、「最後の覚悟」だけではなかったのだ。

海外リングでの再起を直訴

2月19日、名城は、六島ジムを訪れ、枝川会長に思い切って再起の気持ちを伝えた。
名城を取り巻く練習環境は、今後、大きく変わることになるだろう。名城が望むようにメキシコに単身乗り込んで世界ランキングを上げていくには、生半可な決意ではうちのめされる。ボクシング界には、WBC世界ミニマム級王者として井岡一翔が、颯爽と現れ名城と、辰吉丈一郎が持っていた世界奪取の最短記録は塗り変えられた。じっとしていたら、名城の名は過去のものになるのかもしれない。しかし、名城には、そんな逆風をあがなう宿命がある。6年前の忘れえぬ悲劇。名城と拳をまみえ、不慮のリング渦で、28歳で、この世を去った元日本Sフライ級王者の田中聖二さんの分までボクシング人生を生きねばならない。事実、そう誓ったではないか。
インタビューを終えて、名城と、一緒にJRの奈良駅近くを歩いた。その駅は大きく様変わりしていた。時間はこんなにも早く過ぎ去り、そして、街さえも変えてしまう。それは、ある意味、「無常」ではあるが、小さな努力の結実でもある。小さく感じたボクサーの肩を春の風が、びゅっとなでた。

インタビューアーカイブ

ボクサーズ・コンディショニング ─第3回─ 六島ボクシングジム 名城信男